船村徹さんが、刑務所の慰問を始めたのは、昭和33年からです。
26歳です。
プロの作曲家としてのデビューが昭和30年、
日本コロンビアの専属作曲家になったのが昭和31年。
作曲家活動を始めた早々から、慰問は始まっていた、といえます。
生涯無二の親友、作詞家の高野公男さんは、昭和31年に他界しています。
「別れの一本杉」は、作詞高野公男、作曲船村徹。
26歳で夭折した、高野公男をモデルに、「別れの一本杉」は映画化されます。
「高野は老母と妹の3人家族。
石切り場で仕事をしながら作詞家を目指していた。
高野には恋人がいた。
しかし父が残した借金を返さなければならない高野は貧しく、彼女と会うのはいつも村はずれの一本杉の下だった。
ところが恋人の姉が嫁ぎ先で亡くなった。
その土地では姉が亡くなると妹が後添えになるしきたりだった。
彼女の父親は裕福な男の後添えになることを強要する。
そのころ高野の詞が作曲家「船木」の曲を得てレコーディングされた。
船木から上京を促され、高野は迷った末に東京へ行く。
残された恋人は周囲の圧力に抗しきれずにとうとう姉の夫だった男の後添えになる。
高野は胸を病んでいた。
入院し、死出の旅につこうとしていた高野を見舞った船木は一つの詞を聞かされる。
「別れの一本杉」という詞だった。
病床の窓から届く恋人の婚礼の行列の音。
そして、「別れの一本杉」の新曲発表の日が来た。
ステージで歌う、春日八郎。
事情を知っている聴衆はハンカチを目にあて、会場からすすき泣きが漏れる。
やがて、、、春日も嗚咽して…映画は終わる。」
泣けた泣けた
こらえきれずに 泣けたっけ
あの娘と別れた 悲しさに
山のかけすも
鳴いていた
一本杉の
石の地蔵さんのよ
村はずれ
呼んで呼んで
そっと月夜にゃ 呼んでみた
嫁にもいかずに この俺の
帰りひたすら
待っている
あの娘は いくつ
とうに二十歳はよ
過ぎたろに
刑務所慰問の話にもどります。
受刑者に捧げた曲も少なくない、と言います。
「希望(のぞみ)」という作品は、自分で作詞作曲した作品。
昭和57年の1月、岐阜の笠松刑務所を訪れる。
1月の寒さに凍える木造の講堂には、300人の女性受刑者。
多くは、男に捨てられないために、あるいは男から逃れるために罪を犯した女たち。
男と違い、最初から金銭目当ての犯罪は少ない。
歌詞が黒板に大きな字で書き写されている。
「やさしい歌だから覚えてよ。
いまから歌詞読んでみっから」 (船村さんは栃木弁です)
ここから出たら 母に会いたい
おんなじ部屋で ねむってみたい
そしてそして 泣くだけ泣いて
ごめんねと おもいきりすがってみたい
ここから出たら 旅に行きたい
坊やをつれて 汽車にのりたい
そしてそして 静かな宿で
ごめんねと おもいきり抱いてやりたい
ここから出たら 強くなりたい
希望(のぞみ)を持って 耐えていきたい
そしてそして 命のかぎり
美しく もういちど生きて行きたい
そしてそして 命のかぎり
美しく もういちど生きて行きたい
多分、その受刑者たちには、現実にそのようなやさしい母は、いないのではないか。
残してきてしまった子どもたちは、悲惨な人生を歩んでいるのではないか。
決して強くない自分を、知っているのではないか。
だからこその、希望(のぞみ)なのでしょうね。
そしてそして 命のかぎり
美しく もういちど生きて行きたい
(船村徹 私の履歴書 日本経済新聞社 から抜粋加筆しました。)
26歳です。
プロの作曲家としてのデビューが昭和30年、
日本コロンビアの専属作曲家になったのが昭和31年。
作曲家活動を始めた早々から、慰問は始まっていた、といえます。
生涯無二の親友、作詞家の高野公男さんは、昭和31年に他界しています。
「別れの一本杉」は、作詞高野公男、作曲船村徹。
26歳で夭折した、高野公男をモデルに、「別れの一本杉」は映画化されます。
「高野は老母と妹の3人家族。
石切り場で仕事をしながら作詞家を目指していた。
高野には恋人がいた。
しかし父が残した借金を返さなければならない高野は貧しく、彼女と会うのはいつも村はずれの一本杉の下だった。
ところが恋人の姉が嫁ぎ先で亡くなった。
その土地では姉が亡くなると妹が後添えになるしきたりだった。
彼女の父親は裕福な男の後添えになることを強要する。
そのころ高野の詞が作曲家「船木」の曲を得てレコーディングされた。
船木から上京を促され、高野は迷った末に東京へ行く。
残された恋人は周囲の圧力に抗しきれずにとうとう姉の夫だった男の後添えになる。
高野は胸を病んでいた。
入院し、死出の旅につこうとしていた高野を見舞った船木は一つの詞を聞かされる。
「別れの一本杉」という詞だった。
病床の窓から届く恋人の婚礼の行列の音。
そして、「別れの一本杉」の新曲発表の日が来た。
ステージで歌う、春日八郎。
事情を知っている聴衆はハンカチを目にあて、会場からすすき泣きが漏れる。
やがて、、、春日も嗚咽して…映画は終わる。」
泣けた泣けた
こらえきれずに 泣けたっけ
あの娘と別れた 悲しさに
山のかけすも
鳴いていた
一本杉の
石の地蔵さんのよ
村はずれ
呼んで呼んで
そっと月夜にゃ 呼んでみた
嫁にもいかずに この俺の
帰りひたすら
待っている
あの娘は いくつ
とうに二十歳はよ
過ぎたろに
刑務所慰問の話にもどります。
受刑者に捧げた曲も少なくない、と言います。
「希望(のぞみ)」という作品は、自分で作詞作曲した作品。
昭和57年の1月、岐阜の笠松刑務所を訪れる。
1月の寒さに凍える木造の講堂には、300人の女性受刑者。
多くは、男に捨てられないために、あるいは男から逃れるために罪を犯した女たち。
男と違い、最初から金銭目当ての犯罪は少ない。
歌詞が黒板に大きな字で書き写されている。
「やさしい歌だから覚えてよ。
いまから歌詞読んでみっから」 (船村さんは栃木弁です)
ここから出たら 母に会いたい
おんなじ部屋で ねむってみたい
そしてそして 泣くだけ泣いて
ごめんねと おもいきりすがってみたい
ここから出たら 旅に行きたい
坊やをつれて 汽車にのりたい
そしてそして 静かな宿で
ごめんねと おもいきり抱いてやりたい
ここから出たら 強くなりたい
希望(のぞみ)を持って 耐えていきたい
そしてそして 命のかぎり
美しく もういちど生きて行きたい
そしてそして 命のかぎり
美しく もういちど生きて行きたい
多分、その受刑者たちには、現実にそのようなやさしい母は、いないのではないか。
残してきてしまった子どもたちは、悲惨な人生を歩んでいるのではないか。
決して強くない自分を、知っているのではないか。
だからこその、希望(のぞみ)なのでしょうね。
そしてそして 命のかぎり
美しく もういちど生きて行きたい
(船村徹 私の履歴書 日本経済新聞社 から抜粋加筆しました。)
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